profile

岡野俊一郎 Okano Shun-ichiro

 1931年生まれ。東京大学サッカー部時代には名フォワードとしてその名を轟かせ、55年に日本代表入りを果たす。西ドイツでのコーチ留学から帰国後は、日本代表ジュニアチーム監督、日本代表チーム・コーチを経て、70年から72年にかけて日本代表チームの監督を務めた。

 その後、98年には財団法人日本サッカー協会会長に就任し、2002年に開催されたアジア初のワールドカップの招致・開催に尽力した。

 現在、IOC(国際オリンピック委員会)委員、JOC(日本オリンピック委員会)理事、日本サッカー協会名誉会長、FIFA(国際サッカー連盟)2006ワールドカップ組織委員等数々のスポーツ関連の役員を兼任している。

 

<講演要旨>

<はじめに>

本日は7回目の開学記念日にお招きいただきありがとうございます。

この間まで、2週間近くアラブ諸国、欧州とまわってきたばかりで時差を解消できておらず、多少脈絡のない話になるかもしれませんが勘弁いただきたいと思います。何のために行ったかというと、国際サッカー連盟・アジアサッカー連盟の特別総会がカタールのドーハであってそれに出席し、その後、イギリスで私が海外副会長を務めているあるクラブを日本大使が表彰するというので、その席でスピーチをやってきました。ついでに、マンチェスターに行って、皆さんよくご存じのマンチェスターユナイテッド、英国のトップのクラブチームが地元で稲本選手が所属するフラムと対戦したのを観戦してきました。 その試合で、去年から地元で無敗のマンチェスターユナイテッドが1対3で負けまして、3点目は稲本選手でした。向こうのクラブの関係者が隣にいるものですから、大声で喜べない、見えないように万歳とやってきました。その後で、チューリッヒに行き、アテネオリンピックのサッカーに関する会議があって、それらをずっとまわってきました。

本日の時間は90分ということですが、これはサッカーの試合が90分なので、それと同じ時間を頂戴したのかなと思っています。今日は、はじめに少し個人的な話を、次にサッカーだけでなくスポーツについての話を、最後にワールドカップについての話をしてみたいと思います。

 

<私のスポーツ歴>

今でも講演によくお呼びがかかりますが、講演に行くと、よく「サッカー一筋でしょうね。」と言われますが、実は、私が一番長くやっているの水泳で、次に始めたのはスキーで4歳からやっています。戦争前のスポーツの全国大会といえば、明治神宮大会がありましたが、それに小学校の時、東京代表として50m自由形で出場しました。また、親父は商人ですが野球好きで、親父の店に軟式野球のチームがあり、区の大会で優勝なんかしていたので、小学校のころから六大学野球を見ていたし、キャッチボールなんかもよくやりました。そのころ小学校では柔道、剣道は正課でしたが、私は剣道をやった。三六(さぶろく)という三尺六寸の標準の竹刀の先を四寸くらい切って短くして、胴を取るのを得意としていた。これは後で反省をしました。30数年前のメキシコオリンピックのときは代表チームのコーチでしたが、釜本選手、杉山選手なんかが頑張ってくれて、銅メダルをとった。小学校から胴(銅)狙いだったからかなと。

サッカーに出会ったのは中学にはいってからです。都立五中、今の都立小石川高校になります。当時、英国のパブリックスクール(ケンブリッジ大学やオックスフォード大学に入るための学校)を手本にした学校で、中学校は大人社会の第一歩である、中学生は大人でありジェントルマンでなければならないという考え方でした。スポーツは英国式なのでサッカーを取り入れていました。ただ、その当時は昭和19年で、空襲が始まるころです。本格的にサッカー部に入ったのは、戦後の昭和21年から。東京が焼け野原で何もない、遊びもない、スポーツや本を読むことが楽しみです。それまでは、みんな軍国主義に染まっていましたので、教育勅語、開戦詔書、東条英機の戦陣訓、全部いまでも暗記しています。終戦の1週間前まで爆雷を抱えて、匍匐前進をする訓練をやっていた。国のために死ぬのは当たり前、そういう状況が終戦でガラッと変わった。あまりの変化に自殺をした友人や共産主義に傾倒した友人もいます。幸いというか、英国教育を標榜していた私の通っていた中学校は自由な校風があって、終戦直前まで英語の授業もありましたし、先輩が後輩を殴るなんていうこともなかった。それなりに勉強もできる環境で、同学年の250人中、現役で80人余が東京大学に行き、1浪も含めると半数は行った。大学では山中湖に合宿に行きましたが、サッカー部の先輩も遊びがないので、部員の倍の数が参加する。そのときの先輩に、「君たちは終戦の混沌としたこの時代に、サッカーという打ち込めるものがあって幸せだ」というようなことを言われたのを今でも覚えています。というように、サッカー一筋ではないのです。また、日本オリンピック協会専務理事という役職を14年間務めましたが、この間いろんな競技に関係しています。国際オリンピック連盟の役職もしています。オリンピックではメダルを渡すのも役割の一つです。’92年バルセロナ大会では、柔道の古賀選手が金メダルを取りましたが、そのときのメダルは私が渡しました。長野冬季大会で日本がジャンプ団体を制したときは、サマランチ会長から電話が入り、いつもはジャンプ団体はIOC会長だが、日本で日本チームが勝ったのだからお前から渡せと、譲られました。いろんなスポーツとおつきあいがあって、改めてスポーツはいいなと思っています。

 

<「スポーツ」と「体育」>

スポーツに関して私の主張を述べさせていただきます。私は、第13期の中央教育審議会(中教審)委員をやった関係もあって、中曽根首相の時に、教育の根本を洗い直す作業を行う臨時教育審議会(臨教審)が設置されたとき、スポーツ界を代表して入れということで委員になりました。臨時というと軽いような感じもしますが、これは3回目で、1回目は明治5年、日本に教育制度をつくるというとき、2回目は昭和22年、今の6−3−3制に変更するとき、そしてそのときが3回目です。3年間議論をしましたが、一番最初の論点は、日本の教育の目的は何かということでした。審議会は一部から四部に分かれていろんな議論をするのですが、この論点に対する結論は、「知育・徳育・体育の調和のとれた人格の形成」、これが教育目標であるべきだということになりました。はじめの1年が終わって、次の年に移る節目の総会で発言をし、知・徳・体のバランスというが、1年目の議論は知育しかやってない、不満であると発言しました。そうすると、岡本道雄会長(元京都大学学長)、石川忠雄慶応大学塾長、中山素平日本興業銀行顧問、瀬島龍三伊藤忠商事相談役の皆さんが支持してくれて、スポーツと教育についての分科会を作って1年でまとめよう、言い出しっぺが座長をやれ、ということで引き受けました。一年後にリポートを出しましたが、それを取り入れたはずの報告書の素案にスポーツと教育の章がどこにもないので、また会議で意見を言いました。事務局は、リポートの内容は各章に散りばめられていると言います。私は、こういう答申を全部読む人は少数、だいたい目次を見て関心のある項目があったらそこから見るものだ、だから章立てがないとだめだと申し上げ、章を作ってもらいました。ついでに前文も書かせてくれと頼みましたが、全部はだめだというので譲歩して半々で書かせてもらった。その中で、「体育」と「スポーツ」は違うものであると明記しています。祝日に、「体育の日」がありますね。これは東京オリンピックを記念してできたのですが、この名前はおかしいですね。オリンピックは体育ではありません。スポーツなんです。

スポーツマンを英和辞典で引けば、いろんな訳があります。「運動家、狩猟家、漁労家」。あんまり使わないですね。「スポーツ好きの人、正々堂々と闘う人、スポーツマンシップを持っている人」。スポーツマンが分からないから辞書を引いたのにスポーツマンシップを持っている人というのはおかしいですね。「競馬師、賭博師、遊び人」。これに至っては「う〜ん」と言うしかありませんね。このように、スポーツマンでもいろんな訳があるように、スポーツということをきちっと理解している人は少ないのです。スポーツSportという言葉は「disport」という中世にできたミドルイングリッシュから生まれた言葉です。その頭の「di」が消えて「sport」。元々「dis」は接頭語で、良く知られているのは動詞につく場合で、like(好き)とdislike(好きじゃない)、charge(充電する)とdischarge(放電する)など、disを付けると反対の意味になります。これを名詞に付けると、そのものから離れるという意味になります。以前、高知工科大学の学生が何か新しいことを発見したという新聞記事を見ましたが、discover(発見する)は「dis」を取ると「cover=被い」ですね。coverがあると中が見えないけれども、離れると中が見える、発見するということです。「disport」のportは港です。ですから港から離れるということ。船が港にいるときはきちんと停泊させなくてはいけません。外洋に出ると自由に、束縛を離れて自らの意志で航海する、楽しむ、ということです。「disport」は英和辞書にも「戯れる、楽しむ」と出ています。「disport」の「di」だけが消えてスポーツsportとなったんです。

体育はフィジカルエデュケーション、教育ですね。スポーツは自らの意志で楽しむ。両者は違います。スポーツという大きな文化の中で、教育に適した内容を抽出して教科にする。それが「体育」です。オリンピックはスポーツの祭典であって、体育の祭典ではない。20数年ずっと、第14期中教審委員や生涯学習審議会委員など文部省関係の委員をやってきて主張してきました。少し報われたのは一昨年の省庁再編で、文部省が文部科学省になって、それまであった体育局がなくなって「スポーツ・青少年局」になりました。ただ、皆さんは無意識に使い分けていますね。休日に、「たまにはスポーツやろうよ」とは言うけれど、「体育やろうよ」とは言いませんね。頭のどこかで感覚的に理解しているのですが、議論してないので未だに保健体育課というように使っていますし、なかなか日本ではスポーツという言葉になりません。

 

<スポーツの必要性>

スポーツが何故必要かといいますと、私は立場上、官庁が実施するいろんな体力テストの結果だとか統計だとかを目にすることができます。全体的に今の若い人の体力低下、特に持久力、スタミナがないのは明らかです。東京あたりでは、たくさんの若者が駅の階段に座っている。背筋力がないので立っていられないんです。非常に弱い。日本人は、黒人や白人と比較すると、骨の量が20%程度少ない。骨が細いからそれにつく筋肉も少ないんです。今の若者は背も高い、だけど心臓、肺臓など心肺機能は低下の一途をたどっています。骨は伸びているが太くなってない。例えれば、大型自動車に小型自動車のエンジンを積んでフレームは軽自動車ということです。統計上でそれが解ります。私は、あえて言っていますが 昭和40高度成長期以降に生まれた日本人の平均寿命は60歳をきるだろうと。こんなことを言うと、厚生労働省の人から、「平均余命を知らないんですか。日本は世界一の長寿ですよ。」と言われるのですが、あれは若いときに体を使って苦労したお年寄りが長生きしているんだ、若いときに体を使わず汗をかかない人が、体を使った人と同じように長生きするとはとても思えない、というのが私の持論です。

体を作ることは極めて大事なことですが、文明が進むと汗をかかなくなります。階段で上り下りしていたのがエスカレータになる、箒から掃除機に、これらは悪いわけではないのです。結果はどうなったかというと、「余暇」が生まれました。機械化によって自由になった分、ゆとりが生まれ人生は豊かになります。一方で、自然にあった身体的刺激が減ることになったのです。赤ちゃんの細胞は約4兆といわれています。これが発達、発育することで50兆から60兆になります。一つひとつに生命活動がありますが、あるレベルの刺激を与えないと順調な発達発育をしません。小学1年生の統計で、学校内の怪我でどこに一番怪我をするかというと、顔と頭です。なぜかというと、神経の発達が不十分で転ぶとき手が出ず、そのままころぶことが多い。統計上の現実です。瞼のはたらきも眼球にとって大事な働きをしますが、瞬間的に閉じるのが遅くなって、ゴミが入ったり眼球に傷を付けたりとこうことが多い。これは、子どもが外で遊んでないからです。外で遊ぶ環境を作らない大人が悪いのです。子どもが遊ぶ道路、路地を奪ったのに、広場を作っていない。他にも、小さいときから固いものを食べさせないからアゴ骨の発育が不十分で歯並びが悪い。健全な体の発育・発達にはあるレベルの刺激が必要なのです。この刺激をあたえるのが「スポーツ」です。いまや、こうした意味において「体育」も重要です。体に必要な筋肉、骨、内臓、心肺機能なんかを鍛えないで、知育だけやっても知・徳・体のバランスなんかあり得ないですね。

 

<スポーツについての世界の考え方>

どうして黒人が水泳に弱いのか。アフリカにプールがないから?。いいえ、川だって湖だってあります。これは、黒人は筋肉の比重が多く胴が短いから浮力がないんです。だから良い選手がでてこない。ジャンプで日本が一時期強かったですね。これは日本人が胴長だからです。昔はスキー板を揃えて飛びましたが、今はV字に開いて体も風(=浮力)を受けて飛ぶからです。スポーツもこのように科学的裏付けがあります。人間の体もどうしたら健康を維持できるか科学的にも分かっています。残念なのは日常生活に適用されてないことです。「21世紀はスポーツをやらねばならない」というのが世界の考え方です。例えばイギリスでは新しい団地をつくるとき、真ん中にスポーツコンプレックス(=スポーツ施設複合体)を作ります。その周辺に住宅を配置する。誰でもが近く、行き易く安全なところにそういったものを作って求心力を高め、地域の連帯感を増すのです。日本のスポーツ施設は全部町はずれにあって、わざわざ行ってスポーツしようとはなかなかなりませんね。スポーツを身近なものにしなければというのが、ヨーロッパなどの現実の課題です。それに実際に挑戦しています。日本の場合は国もなかなか理解してくれない。自分で空いている時間を見つけて、自分で汗を流す楽しさを感じていかないといけないですね。

今、いろいろいろいろ勝手なことをしゃべっていますが、このマイクがなければ声を張り上げなければなりません。マイクは誰かが作ったものです。また、このホールの照明の電気は?空調は?どこかで誰かが電気を作ってくれています。これが分業社会であり、文明化です。洋服屋でも生地は織れません。社会活動のある部分をやって対価を得ています。「人、一人で生きるにあらず」といいますが、仲間と共に社会を生きているのです。以前、クエートで国王にお会いしたときに聞いたスピーチの内容を今でも忘れていません。こう言われました。「我々はオイルのおかげで豊かであるが、今もってスポーツを大事にしている。オイルは有限でいつかはなくなる。なくなったとき我々は再び海に戻らなければなりません。 海に戻ったとき体力のない者は生きられない。だからスポーツを大事にし体力をつけることを国の基本にしています。」と。イラクの南のほうにある国で、元来は漁業や真珠貝などが中心の国でした。この豊かな産油国の国王が、石油がなくなったときのことを考えています。産油国が石油を出さないということになればオイルショックですね。日本はオイルの全てを外国に頼っている。食糧も自給率が40%を切ろうとしています。日本という国も一人では生きていけないのです。仲間と生きる心は大事です。自分さえよければという考えでは生きていけません。仲間のために、という精神を体験できるのが「スポーツ」です。体力や健康だけでなく、仲間と生きる心を育てられることがスポーツの特性です。教育というものの中で、こういうことは必ずしも教えられてないのです。世界の孤児にならないよう、21世紀は心も育てる、世界の仲間を大事にする、スポーツや文化の振興を図る。こうして、はじめて知・徳・体のバランスのとれた教育になると思います。皆さんも体を鍛えてください。今は若くて元気ですが、先を考えて健康でいい仕事をしようとするならば、多少はそれなりの刺激を与えていかないと体は成長しません。

 

<ワールドカップの招致と日韓共催>

さてワールドカップです。私がサッカーを始めたのは昭和21年で、終戦後のことであり、ボールの配球は年間2個で、ボールも用具もお粗末なものでした。初めてヨーロッパ遠征 をしたのが50年前の昭和28年。東大というとスポーツが弱いという印象を持っていると思いますが、我々のチームは大学選手権優勝チームで、私は得点王でしたので、日本代表選手をやっていました。このとき40日間遠征した17人の仲間は今でも集まったりします。 そのとき、ヨーロッパのスポーツ事情を見てびっくりしました。スポーツは基本的にクラブチームですね。ドイツは特に州毎に独立して制度もいろいろですが、バイエルン州ではクラブシステムが発達している。学校から帰ってきて好きなクラブにいってスポーツをする。公園もいいです。イギリスでは公園に芝生があっても柵がない。子どもがサッカーをして、お年寄り日向ぼっこをする。芝生は座っても裸足でも汚れないし、ころんでも怪我をしにくい。そのための植物を芝というのですが、日本では柵を作って立入禁止です。

この頃から、いつかはクラブ制度を日本でも作りたいなあと思っていました。それから’93年のJリーグの発足まで40年かかりました。また、夢であったワールドカップを日本でやりたいとも思うようになっていました。2002年の大会への立候補を考え、当時の森自民党幹事長(臨教審の時の文部大臣)を窓口にワールドカップの開催誘致の閣義了解を得ようと運動をしました。閣議了解は、国際サッカー連盟で求められる国際的なルールですが、当初はなかなか解ってもらえない。世界陸上、卓球世界選手権、バレーも柔道も世界大会を日本で行ってきたが、閣議了解が必要という例はない。その都度、説明に行きました。ワールドカップはオリンピックより大きい大会で、期間も長い。一都市でやるのではなく国としてやるのです。結局、宮沢元総理を会長に344人の国会最大の超党派の議員連盟を組織してもらい、併せて閣議了解もいただきました。それで立候補したところ、2年後に韓国も手を挙げまして、争いとなりました。このとき、国会議員で外交に携わった方々は先を見ていらっしゃった。柿沢元外務大臣、河野元外務大臣から、共催にしたらどうかとアドバイスを頂きました。いろいろ検討して、’96年5月31日にチューリッヒで国際サッカー連盟の会議があり、当時のアベランジェ会長、ブラッター事務総長から共催を呑んでくれと言ってきました。宮沢元総理を中心に、前日本サッカー連盟会長である長沼さん、今の会長の川渕さんと議論し、最後に、「国際サッカー連盟(FIFA)が共催を決定すればそれに従う。」との文書を作って、私はそれを持参し、FIFA本部でブラッターに渡しました。共催は結果として良かったですね。後日、韓国の盧武鉉大統領から同国の青竜章という勲章をいただきました。理由はワールドカップの共催を成功させ、日韓関係を大きく好転させたということです。単独開催だったらお互い大変だったなと思います。日本と韓国が同じ船に乗って、同じ目的に向かって協力したのは初めてのことです。それが成功し、韓国も日本文化の導入に門戸を開き始めた、若者同士の交流も活発になってきた。勲章をもらったからでなく、こうした結果が本当に良かった、共催で良かったと思います。

 

<ワールドカップと国際理解>

ただ韓国はベスト4まで進みました。日本はベスト16まで。トルコに負けました。日本のマスメディアは、強いのはドイツ、フランス、イタリア、イギリス、スペインなど、国の大きなところが強いと思いこんでいるふしがあります。ところが、ヨーロッパに行くとみんな強いんです。トルコはもちろんセルビアも、チェコも強い。相手がトルコと聞いたときには正直やりにくいと思いました。できればやりたくない。うまいし速いし日本の苦手のタイプです。しかも主審がコリーナと聞いてなおさらです。コリーナはイタリアの人で、世界一うまい審判といってもいいですが、実はコリーナが笛吹いた国際試合で、トルコは8連勝中、一度も負けてない。トルコの選手にすれば心強いですね。審判の割り当てを誰が決めるかというと、国際サッカー連盟の審判委員会です。その委員長は誰か。セネス=アージックというトルコ人です。残念ながら試合は日本の負けでした。トルシエ監督についてはいろんな意見がありました。私は、最後までトルシエ監督でと考えていました。なぜならあらゆる大会で結果を出して、チーム力は上がっていたからです。選手とうまくいっていないという声もありました。うまくいっている選手もいましたし、いかないのもいました。’99年にアンダー20がナイジェリアで戦ったとき、トルシエの下、日本は初めて決勝に進出しました。2000年シドニーオリンピックでベスト8、これは23歳以下です。レバノンでやったアジア選手権で優勝。2001年日本でのコンフェデレーションカップではフランスに負けたけれども準優勝。チーム力の上がっている間は監督を替える必要はありません。 私はトルシエ監督を支持しました。

ワールドカップでは、いろんなことがありましたが結果としてはそれなりの成果を上げました。決算も約70億円の黒字で、これをどう使うか検討中です。250万人が日本と韓国の競技場を訪れ、延べ287億人がテレビで観戦しました。世界の人が日本と韓国を見てくれました。 日韓は、世界ではFar East(極東)にあります。日本の地図では日本が真ん中ですが、この地図を使っているのは世界の3%の人です。ほとんどはヨーロッパが真ん中の地図で、だから日本は「極東」です。日本は鎖国もやったし、日本から文化が出ていったことがない。ヨーロッパやアフリカでは、日本が世界のどこにあるのかあまり知られていません。日本では、世界中のことが報道されますから日本人は他の国を知っています。だから相手も日本を知っていると思いがちです。ところが知りません。それが現実です。ワールドカップで287億人が見てくれた、世界中のマスメディアが札幌発、埼玉発、大分発、ソウル発と情報の発信を行った。世界がこれだけ日本と韓国を見たのは初めてでしょう。世界へ行くと、こういうことは重要です。ロンドンでタクシーの運転手がワールドカップ良かったねと言ってくれる。国際交流を考えたとき、ワールドカップに限らず、サッカーに限らず、スポーツは相互理解に非常に大事です。

皆さんにいくつかお願いしたい。それは言葉を勉強することです。外国語だけでなく日本語も、です。日本語をちゃんとしゃべれないのは外国語もだめです。私も国際会議でしゃべることがありますが、もっと言葉ができればなと思います。言葉は、若い人が頭脳の柔らかな時に鍛えないとうまくなりません。日本人は語学が駄目というのは定評になっていますね。外国の人に、日本人と中国人と韓国人を見て分かるかと聞けば、外見では分からないと言いますが、英語をしゃべらせれば分かる、一番上手なのが中国人、一番下手なのが日本人、中間が韓国人と。ヒアリングだけでなく自分の考えを出していくことも大事です。私も気がついたのが遅かった。それだけに敢えて機会があるごとに言葉の勉強をしてくださいと言っています。言葉がうまくないので、招致の時は、ある言葉をスローガンのようにして使っていました。「Football is my life.」「World Cup is my dream.」「Your support is my wish.」といって招致を行っていました。スポーツはすばらしいと思います。「フットボール(サッカー)はUniversal Cultureである」とも言っていました。それは、サッカーが言葉や人種や宗教やイデオロギーを乗り越えて、人々を友情で結ぶことができるからです。

 

<大会を支えてくれた人々>

ワールドカップの大会中、多く方々が応援に来てくれました。小泉首相も会場に来て応援してくれました。ロシア戦に勝ったときロッカールームまで来て、汗だらけの稲本選手に抱きついて「感動したっ!」ってやってました。皇室からも、天皇皇后両陛下や皇太子殿下も見にこられました。残念なのは大会のすぐ後の11月に私どもの名誉総裁である高円宮憲仁親王が急逝されたことです。ワールドカップも18試合見に来られ、私よりも一試合多い、それくらい御熱心でした。誠に残念です。大会が終わって、総理大臣から監督、選手一人ひとりに総理官邸で感謝状をいただけることになりましたが、高円宮殿下が総理官邸へいくという話をお聞きになり、「あそこは飲み物も食べ物も出ませんよ。うちへ寄ってなにか食べて行ってください。」とおっしゃる。チーム全員とバスで高円宮邸へ伺い、軽く食事と飲み物をいだだきました。妃殿下もお嬢様(女王というのですが)も一緒になって選手たちとわいわいと楽しく過ごさせていただきました。そこへ突然、皇太子殿下もお出ましになられましたが、ポケットから写真帳を出され、見せていただきますと、愛子様と皇太子殿下が全日本のユニフォームを着て写っている。「赤ちゃん用のユニフォームはどうされたのですか。」とお聞きしたら「そういうのもちゃんと売っていますよ。」と言われました。皇室の皆様も非常に応援してくれました。当然のことですが、サポーターの応援やボランティアの皆さんの助けで初めて大会は成功したのです。大会が終わって、東大サッカー部時代の仲間が慰労会を開いてくれました。そのとき、私の4年後輩の浜口という男が、試合を1試合も見なかったと言うんです。どうしてって聞いたら、横浜駅で外国人の観客のために通訳のボランティアをやっていて、肝心の試合は見られなかったと。サッカーの好きな男が日本でのワールドカップの試合を見ないでボランティアをやってた。こういう人たちが支えてくれて大会が成功したのだと胸が熱くなりました。大勢の人が一緒に支え合って、助け合ってうまくいくのです。

 

<「チーム」ということ/これからの期待>

チームでやると、いろいろ言い訳ができます。サッカーでもそうですが、シュートがはずれる、それはパスが悪いからだ。点を取られた、あいつが抜かれたからだ。これが一番危険です。チームで行うときほど、自分の役割にベストを尽くさなくてはならない。自らに厳しくならないとチームは強くならないのです。日本では、仲良くやろう、助け合おう、チームワークでいこうとすぐ言いますが、本当のチームワークは同時に自分に対する厳しさが必要です。最近、オリンピック予選をやっていますが、水泳の北島くんとか、陸上の室伏くん、女子マラソン、体操、女子レスリングなどで良いニュースが飛び込んできます。反面、ハンドボール、バスケットボール、ホッケー、バレーボールとかは良くありません。いい成績を出しているのは全部個人競技です。かつて日本人はチームで仕事するのがうまいと言われていましたが、いま申し上げた難しさを象徴してます。仲間といれば自分に甘くなりがちで、リーダーシップを発揮する人がいると、あいつうるさいなとなる。与えられたマニュアルをこなすが、創意工夫がない。ここに日本の弱さが出ているように感じます。サッカーは、来年からアテネ五輪と2006年ワールドカップの予選がはじまります。それまでに一人ひとりが自分に厳しくあってほしいと思います。24時間、サッカーのことばかり考えていられないですが、少なくともチームにマイナスになることはしない、できればプラスになることするという意識をみんながもって初めてチームが強くなるのです。ジーコ監督は監督経験がありませんが一所懸命やっています。監督経験がないことが一抹の不安ではありますが、なんとかをチームを2006年にドイツのワールドカップで見たいと思います。立場上、私は行かないといけないのですが、日本のチームが来ないのに行っても楽しくありません。来年のアテネ五輪では、他の競技もサッカーも見られる。できるだけ日本がいい成績をあげて、子どもさんたちがスポーツやろうと思う刺激になってほしい。その理由はさっき申し上げました。時間が来たようです。Jリーグも延長戦をなくしましたので時間超過はやめたいと思います。いろいろなことを申し上げましたが、1つか2つでもいいので、考える材料に、岡野がこんなこと言っていたと頭に少しでも残してもらえば大変嬉しく思います。これからの日本を支えるのは皆さんです。こう言うとオーバーに聞こえるかもしれませんが、チームと一緒で、一人ひとりが頑張らないと日本はよくならないのです。何故なら我々一人ひとりが集まって日本ができているからです。簡単なことです。日本がすばらしい国になれば世界もすばらしくなります。何故なら多くの国々で世界はできているからです。このことはぜひ心に残していただき、皆さんのこれからの活躍を期待して、話を終わりたいと思います。長い時間ありがとうございました。