電子講義:量子ゲーム理論

全卓樹

[電子講義集] [全HP] [english]
[Index][ch0][ch1][ch2][ch3][ch4][ch5][ch6][ch7][ch8][ch9]
前へ 次へ

    量子ゲーム理論(8-1)

量子ゲームの意味:二者の関係性の契機の内在する存在記述としての量子論

量子戦略の意味を考えると、プレイヤーの選択をヒルベルト空間ヴェクトルで記述することの意味を問うことになるのであるが、結局これは物の状態をヒルベルト空間ヴェクトルで表すという、量子論の考え方そのものの意味を考えることに行き着いてしまう。

量子論とは何か。一言で言うと、量子論とは物の状態がヒルベルト空間ヴェクトルで記述されるという主張のことである。つまり此処までやってきたことが理解された読者は、これまで物理をきちんとやってこなかったとしても、量子論の本質的な部分が理解されたということなのだ。

量子論はその発見の歴史的な事情から、標準的な教科書などをみると「電子エネルギーの離散的状態」、「粒子の波動性」、「不確定性」、「シュレディンガー方程式」といった概念を巡って議論が進められる。有名なディラックの教科書だけがこの例外で、そこでは第一章がヒルベルト空間ヴェクトルの定義で始められている。それも <ブラ| と |ケット>という初めて読むと、まじめなシャレとも冗談ともつかないような、一風変わった表記がいきなり出てきて、数学の素養があっても少し面食らうものである。

ちなみに彼の独特の寡黙さが期せずしてユーモアをもたらす人柄は、次の実話によく現れている。あるときディラック博士の自宅を雑誌記者が訪れた。椅子を勧められて「先生のお忙しい中、お時間をいただき恐縮ながらお邪魔にあがりました。しかし今日は大変良い天気でございますね。」と彼女がいうなり、ディラックは無言で立ち上がり部屋を出て行った。何か機嫌を損ねたかと彼女が心配して待つこと二分、戻ってきたディラックは「ええ、確かに大変良い天気でした。」と真顔のまま答えたそうである。

量子論では、何らかの理由で物のありようが完全に指定できない状況を考える。そうすると「状態」というものと「観測の結果」というものを分離して考える必要が出てくる。ある物のある状態から、測定の度に異なった観測結果がもたらされるとする。この状態自身を記述するのに、得られる観測結果の事象すべてとその各々が起こる頻度を並べるのが、さしあたりでき得る精一杯のことだろう。

起こりうる事象は「0」と「1」と「2」の3つで、それぞれ2割6割3割、という具合にである。これはまさに確率ベクトルであることは慧眼な読者諸氏はもう気づかれたことだろう。これは全部足せば1になる実数を並べてもよいが、別な方法に絶対値を二乗して全部足せば1になる複素数を並べても勿論かまわないだろう。しかしこうすると各事象が起こる確率という1つの数を、わざわざ2つの数で指定することになるので、思考の経済からいって冗長のようである。

ところがいま、それと同等な物がふたつ並んである場合を考えてみる。この二つの物を同時に観測するとき、何が起こりうるだろうか。各々は独立の物で2つあったところで一方だけを観測した結果をただ並べて考えればいい、と仮定してよいのだろうか。確率を足せば1になる実数の並びで書く立場は、実はそう言う予想をしたことに対応する。

しかしこの観測者というのは、個々の物の有りようも完全に指定できないのに、2つの物の関係性について、それが独立だというような強い仮定を最初から置くとしたら、それはいわば身の程知らずの傲慢のような気がしないでもない。むしろふたつの物の状態というのには、観測者の与り知らぬ背後で、ふたつが入れ替わっちゃったり、お互いに連関していて、一方のありようが他方のありように影響して存在しているという可能性を排除しない記述を考えた方がいいのではないだろうか。

ひとつの物の可能な観測事象を複素数を並べて記述する記法を、ふたつの物の記述に適用してみると、実はこのような可能性を含める余地が、うまく最初から用意されてあった、というのが、量子的粒子をヒルベルト空間ヴェクトルで記述することの利点なのである。それだけでは単なる「利点」であるが、さまざま実験、観測の結果、まさにそのような記法のみが現実の原子や素粒子を定量的に記述できることがわかった、これが量子論の成功の内実なのである。

行先: 研究のページ
copyright, jan 2006
全卓樹ホーム 教育のページ
t.cheon & associates