物理学というのは、人間が世の中で起こる事象を精密に見て、その中に見出された法則を数学的に表現したものです。その意味で物理は常識の集大成です。19世紀終わりになって「古典力学」、「熱力学」、「電磁気学」として我々の世界を司る物理の理論が完成した時には、「世の中で知るべき事は人間は全部知ってしまった」「あとはこれを具体的な状況に応用するだけだ」とさえ考えられたものでした。しかし20世紀初頭になって、我々のスケールから10億分の1も小さい極微の世界の様子が垣間見えるようになると、そのような認識は単なる無知からくる傲慢さだという事がわかってきました。そこではそれまでの理論が全く刃が立たなかったのです。極微の世界の様子を手探りで調べていくうちに、そこに展開される現象を支配している「量子力学」驚くべき法則がだんだん解明されてきました。
量子力学はレーザー、半導体といった20世紀後半技術の基礎をなしており、その意味で我々は毎日気付かぬままにこの恩恵にあずかっているのです。
ところが量子力学には、数学的に完璧に整備されているにもかかわらず、その根底にいい知れぬ不思議さ、「形而上学的神秘」とでも呼ぶしか無いものをたたえています。量子論はそれまで知ってた「古典物理学」の法則に少し変更を加えた、といった生易しいものではなく、人間の認識そのものに関する考え方の変更を迫る「非常識な」ものだったのです。
そこでは「ものの状態」というのと「観測の結果」というのが分離されて、もののありようは確率的にしか指定できないばかりでなく、二つの事象の原因結果の関係までに不定性が忍び込んで来るといった奇妙な現象が見られます。有用性の陰に隠れて、量子力学のこのような側面は、長らく一部の変人の追求する「哲学の一種」と看做されていました。
様子が変わったのは世紀の転換期、この10数年ほどの事です。それは人間の技術が10億分の1の量子世界で粒子1個を操作する段階に達して、我々が直接に量子世界と関わりを持つようになったためです。もし量子論に不思議な非常識な性質があるなら、それを使って不思議な非常識な事ができるかもしれない。そのような夢がいまや現実となってきたのが「量子計算」「量子暗号」「量子テレポート」と言ったものです。こういった現象を扱うのが「量子情報」と呼ばれる分野で、今や理論物理学の花形として素粒子論と並ぶ分野にまで成長しようとしています。
しかし量子論の神秘を「量子情報のもたらすテクノロジー」との関連に特化して追及するとすれば、それは過ちでしょう。なぜならば量子論の不思議さそのものは、依然本当には理解されておらず、量子論がどんな非常識な現象を生むかのについての全体像はみえていないからです。量子論のあれこれの奇妙な側面が、相互の連関無く知られているの事情は、文字通り「群盲象を撫でる」かのごとくです。
量子力学を本当の意味で解明する事、量子論を記述する「ヒルベルト空間」の数学の意味する事を直感的に理解する事、量子論を我々の直感的世界認識と整合させる事、そしてそこにどんな神秘と不思議がまだ潜んでいるのかを調べる事、これこそは人類の知識の限界を探る人々に与えられた、21世紀の、あるいは22世紀、23世紀にも続くかも知れない最大の課題の一つだと言い切って間違いないでしょう。
目に見えず色も形もなくとも存在する建設途上の神殿、量子力学はそういったものとして思い描いて良いでしょう。目に見えないもの型の無いものが信じられない人でも、音楽を思い浮かべてみれば納得されるのではないでしょうか。このような壮大な神殿の建設の現場にあって、小さな石を切り出して磨いて、完成した神殿の姿を想像を尽くして思い描きながら、一つ二つと積み重ねること、私の試みているのは、いわばそうした事です。