騎士と農民ゲームの意味
この章は技術的な難しさはありません。しかし通常は余り触れないようなすこしお行儀の悪い話題のようにも解釈できるので、不良中年以外の方、とくに「よゐこ」の皆さんは、飛ばして次に進まれる事を強くお勧めします。
いまの「農民と騎士ゲーム」の意味するところを少し考えてみましょう。一応これは人間をたくさん集めて、あるルールのもと、でロールプレイイングゲームをやった結果という設定です。しかしこれは「知恵があって合理的に選択する」種族、すなわち人間でないとプレーできないか、というとそんな事もなさそうです。「他人のもとをとって暮らす」という悪知恵が働く程度の賢さがあればだれでも、たとえばイヌやネコやサルといった動物だってプレーヤーになれそうじゃありませんか?
一次生産者が長期的に安定した一定の収益をあげるのに対し、このような「捕食者」は一度にあげる収益が大きい訳です。実際「捕食行動」というのは自分以外に他にも生物がいる環境での生物の基本的生存方法の一つで、特に他の生物なり自分の種の他の個体なりの数が豊富な環境では必ず発生します。このような状況を価値判断をとりあえず取り去って、「ゲームテーブル」という形でモデル化すると、今のゲームができてくるわけです。つまり、このゲームを必ずしも我々の考えるような意味での「知性」をもたない動物に対しても適用する可能性が生ずる訳です。
一つ注意してほしいのは、このゲームでは得点が0でもプレーヤーは退場しませんから、これは一種余剰生産物のある集団の生態を記述していると思うべきなのかもしれません。実際「引き蘢り」のプレーヤーも得点0のままずっとプレーし続けるとしてますから。もっともこれを、単に x と y の2種の生物の総数が可変にするための理論上のテクニックと思う事も可能です。
いまκが0の場合、すなわち集団内の各個体が自分の収益をとりあえず最大にするというプレースタイルをとるときは、「餌」になる個体「捕食者」になる個体それぞれ役割が異なりつつも、結局両方とも収支勘定0でカツカツに暮らしてるだけです。前にも言いましたが、「自由競争」の結果は無階層な集団ではなくどの階層も同じくらいぎりぎりで生きている集団になるのです。これはある意味で囚人のディレンマで「狭い意味の収益最大追求」が双方を悲惨なナッシュ平衡においているのと類似の状況です。
また、κ>0の場合、すなわち集団に「他人の事も時々思いやろう」という規範が存在する場合に、階層間の「幸福の差」が生じるのも、前の「ゲーム研究所収容所」と一緒です。いわば「フリーライダー」をある程度許容したところで初めて安定な集団が実現します。このような状況ですと「捕食」という行動に対して、「悪」と「高貴」という一見矛盾する概念が結びつけられるわけですが、これも我々がみな日常的に見聞きする事です。
κが 1/2 の「社会全体で最適な利他モラル」のばあいに、「農民型」(しかもういませんが)が自然人口の半分になってるのは、いわば補食される予定の分を予め自ら人口制限をして「搾取」に伴うコストをさけたようなもので、そのように社会のルールを構成して「理想の裕福な民主社会」を作ってるとも解釈できます。これもなんか時々見かけるプリエムプティウ゛な戦略で応用範囲が広いかも知れません。
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