電子講義:入門量子情報

全卓樹

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猫でもわかる量子情報(29)

結びにかえて

 量子情報の基本を2ヶ月にわたって説明してきましたが、さてどの程度まで理解されたでしょうか。「猫でもわかる」というのは明らかに注意を引くためのただの虚偽広告ですが、それは猫が量子力学の世界に生まれた、例の不幸な「シュレディンガーの猫」だという、ありがちな言訳で勘弁してもらう事にしましょう。

 実用的な習熟を旨とした正式の量子力学の授業などでは、シュレディンガーの波動方程式をきちんと解いて、その固有関数が直行関数系をなし、これをベクトルと思ってその内積が観測確率になる、という手続きを踏みます。これにはいろんな特殊関数が出てきて結構大仕事です。ところが、こと量子論が量子論たるエッセンシャルな部分だけを学びたいのなら、この固有値問題の計算という技術的な部分はさけて通ることができます。しかし一方で、そういう具体例に触らずに、いきなり「状態ベクトルはヒルベルト空間の要素でアル、云々」って始められても、これもちゃんとしたフォーマルな現代数学を通過しなかった頭脳にはつらいものです。

 そこで量子論のフォーマルな部分を、日常言語と直覚的イメージで肉付けして理解を図ろう、という路線を行くことになる訳ですが、これが妙な具合に一人歩きして「不確定性」、「確率解釈」、「観測の実体への影響」そして「決定論の破綻」はては「客体主義の終焉」や「西洋的合理主義の終焉」まで話が進んだりすると、もはや実際の役に立たない言葉遊びに堕してしまいます。量子論の創始者のうちさえ晩年にこういう韜晦や神秘化に走った人もいました。

 しかし量子情報という分野が始まったおかげで、このフォーマルで抽象的な部分がそのまま輝ける先端テクノロジーの衣をまとう事になりました。それ故に今世紀は、従来より遥かに多くの科学者、技術者、医師、著述家や芸術家、さらには軍人、政治経済の実務や政策担当者にとってさえも、神秘めかした曖昧な言説にかわって、量子論の非自明でかつ合理的な論理構造そのものの鑑賞が必須の教養になってきたのです。そしてこの教養には、量子論の本当の「哲学的意義」である「局所的因果性の破れ」、つまり世界の端から端までどの瞬間も孤立して存在するものは無い、という認識はぜひ含まれるべきでしょう。

 私見ではこれと類似の、ついていけないほど進んでしまった技術的洗練が文化的消化不良をおこした例が、20世紀のいろいろな面に見られます。たとえば音楽の事を考えてみて下さい。いわゆる「クラッシク」音楽の話です。19世紀末に和声法と管弦楽法の新境地の開拓が進み、人間のあらゆる情感を、不安や盲目の意識下の情動までも含めて描き出すような音楽がマーラー、リヒャルト・シュトラウス、プッチーニにまで至ったのちに、一体何がおこってしまったのでしょうか。21世紀の音楽の主流が、先端技法をそれ自体として遊ぶのを止めて、音楽本来の働きに奉仕させること、つまりは個人および集団としての人間の情動を律し、洗練させ高める媒介に立ち戻ることを望んで止みません。

 ・・・と書いてきたら、間違いなくこれこそは蛇足、駄弁の典型なのは明白です。最後に参考文献にリンクしますので次に進んでください。

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