水泳の大会データを経済学実験に変え、人間行動の謎に迫る

林 良平HAYASHI Ryohei

専門分野

行動経済学、実験経済学

詳しくはこちら


 私たちの社会を豊かにしていくために欠かせない学問分野のひとつである経済学。豊かな社会を実現するために、世の中にある限られた資源をどのように活用していけばいいのかを考えていく。そのための経済学の理論も積み重ねられている。
 伝統的な経済学理論は、「人は合理的な行動をする」という前提に立っているが、実際はそうではない。現実の人間心理や人の行動特性を取り込み、より人間社会に役立つしくみをつくりあげようとする学問分野、それが行動経済学だ。
 林講師は幼い頃から打ち込んで きた水泳の知識を武器に、水泳大会のデータを経済学の実験に変換することで、人間の行動特性を理解するための新しい知識を積み上げている。

競泳ルーズ_1913491_l-3.jpg

「水泳を研究」するのではなく「水泳で研究」する

「私の専門は行動経済学ですが、この分野を選んだというよりは、気づいたらこの道にいたという感じですね」
 林講師は穏やかな表情で、こう振り返った。
 林講師が経済学の道に進んだのは、小学1年生の頃から励んでいた水泳と大きな関わりがあるという。

「企業は社会貢献活動にお金を出すことがよくあります。高校生の頃はそのお金を集めて、地域の選手を育てるスポーツクラブをつくりたいと考えていて、それを実現する方法を探るために高知大学で経済学を学ぶことにしたのです」
 林講師は、高校2年生のときに鼓膜を破く事故に遭い、水泳選手の道は断念したが、大学生になった後も水泳から離れることができず、1年生のうちから水泳部の指導をし始めた。

「水泳部に入ってすぐに私が『指導したい』と言ったものだから、3年生のキャプテンとかなり揉めました」
 1年生がいきなり指導者になるのは異例なことで、当初は上級生からの反発があった。だが、全国大会に選手を送り出すという大きな実績を出し、林講師が3年生になるころには、高知県の水球チームのコーチを頼まれるまでになった。
 このまま水泳の指導者の道を究めることもできたかもしれない。しかし、林講師はその道を選ばず、研究者となることを選んだ。その決断を促したのは、「スポーツは学問の対象で、学問の方法ではない」という大学時代の恩師の言葉だった。
「スポーツを専門にしてしまうと、その競技を表面的に観察するだけで満足してしまいがちです。大会などで現れる選手の行動を深く掘り下げ、理論を打ち立てるための手段が限られてしまいます。経済学には確固たる学問体系がありますし、分析方法も発達しています。それらの手法を活用し、スポーツのデータを分析、解釈することで、人間の行動の本質を抽出することができます。今はその恩恵をおおいに受けていて、恩師の言葉には感謝しています」

061A0300.jpg

美しい経済理論の落とし穴

 林講師は、経済理論の中に心理的な要素が加わった行動経済学を専門としている。
 伝統的な経済学は、嫉妬や競争心のように人の心理、認知、感情などによる思考や判断の偏りが組み込まれていない。そのため、人間がコンピュータのように最も合理的な選択をする理論が構築されてきた。

「このような経済理論はとても美しいものですが、人の感情を無視した理論では、社会が成立しないのでないかと思います。行動経済学では、人の思考や判断の偏りの規則性を明らかにすることで、これまでの経済学では説明できなかったことを説明できるようにします。私たちが日常生活で、思わずやってしまう行動の傾向を明確にすることで、人間や社会制度に対する解像度が高くなっていきます」

 大学院生時代の林講師は、周りにいた人たちが行動経済学の分野の研究をしていたことで、自然とこの分野を研究するようになっていた。

「その頃の私は具体的な目的意識もなく、水泳大会の記録データを集めて、データベースをつくっていました。そのことを知った山根 承子さん(現 株式会社パパラカ研究所 代表取締役社長)が私のところに来て、プロジェクトにできないかともちかけたのが、大きな転機となりました。山根さんも私と同じ大学院生で、意気投合したのです」

 2人は議論をしていくうちに、これまで学んできた経済学の理論が、人間の行動の非合理性を無視していることに不満を感じるようになり、林講師は、ますます行動経済学への関心が高まっていった。

自由形レース_2674606_l.jpg

水泳の記録から見えてきた行動特性

 このときの議論がもとになり生まれたのが、「ピア効果」に着目した論文だ。ピア効果とは、人が同じ環境にいる周囲の人から受ける影響のことをいい、経済学の中で研究されてきた現象だ。林講師たちは、水泳大会の記録をもとに、ある選手が隣のレーンを泳ぐ選手からどのような影響を受けるのかを調べた。

 すると、選手は確かに隣のレーンを泳ぐ選手の存在に影響を受けていたことがわかった。それだけでなく、「自分よりも力のある選手を追いかけるときよりも、自分よりも少し遅い選手に追いかけられる方が、速いタイムを記録する」ということも明らかになった。

 この研究結果は、職場のチーム編成にも応用できる。職場で生産性を高めるときに、とても優秀なベテラン社員と組ませる場合がある。これは、ベテラン社員のやり方を見習って、仕事の効率を高めて欲しいという狙いがあるが、この配置が社員のモチベーションを下げる危険性がある。一方で、急成長している若手と組ませることで、水泳で追いかけられるのと同じような効果が生まれ、生産性を向上できる可能性があることを示した。

「これまで、ピア効果の存在を因果推論することは非常に困難で、多くの研究者が挑戦しては、失敗してきました。膨大な大会データを使った私たちの研究では、条件の整ったデータを抽出することで、ピア効果の影響を厳密に検証することができ、高く評価されています」

061A0428.jpg

経済学の発展に貢献したい

 経済学では理論を証明するために実験という手法をよく用いる。実験には実験室実験、フィールド実験、オンライン実験など様々な手法がある。その中で、林講師が好んで使っているのが自然実験という手法だ。

「自然実験とは、既に起こった出来事のデータを使う実験のことです。自然に発生した出来事からデータをうまく抽出して統計処理することで、実験室で実験をおこなったような状況をつくることができます。私がよく使っている大会データも、選手(被験者)はいい成績を出そうと泳いでいるだけなので、実験者が恣意的に介入する余地がありません。また大量のデータがあるので、様々なシチュエーションを設定することができます」

 林講師は大会データを「宝の山」と言い、膨大なデータの中から、いろいろな知見を引き出している。これからも水泳の大会データを使って、新たな論文を発表していく予定だ。

「自然実験を成功に導くためには、そのデータが発生した状況について精通している必要があります。そのような知識を『ドメイン知識』といいます。幸い、私は水泳についてのドメイン知識を豊富に持っているので、これからも大会データをもとに、標準記録などの目標設定が練習などに与える影響、外部から新しい選手が加わったときに、そのチームに与える影響など、様々な切り口から研究を進めることができます」

 さらに、自然実験とは別に経済実験のアプリケーションの開発も進めている。

「もともと、高校や大学での授業で使用するために、スマートフォンでダブルオークション実験、行動経済学の実験、ゲーム理論の実験といった経済実験を手軽に実施できるアプリを開発しました。それを発展させる形で研究にも使えるものをつくっています。新しい実験のプラットフォームとしてたくさんの人たちに使ってもらえれば、経済学がより発展していくので、そういう形でも貢献できたらと思います」

 行動経済学は、まだ理論が体系的に整理されていない。行動経済学の理論がより整理されていき、人間社会の理解が進んでいくことで、社会の制度やルールもより人間に寄り添ったものとなるだろう。人間の行動をより深く理解し、社会に貢献していくために、林講師は研究を続けていく。

061A0459.jpg

掲載日:2026年9月/取材日:2026年6月